「知の体力」を読んでみた

「知の体力(永田和宏著 新潮新書)」を再読してみた。


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本書の中身は、学問とは、教育とは、大学で学ぶということとは、といったことについて著者の考えがちりばめられている。

中でもとくに”刺さった”文について記述する。

『これから何が起こるかわからない想定外の問題について自分なりに対処するためには、それなりの”体力”が要求される。それを「知の体力」と呼んでいる。大切なことは、何か現実社会で問題が起きた時に、どのように自分の知の片々を動員して乗り切れるか、知の活用の仕方、動員の仕方を「知の体力」というのである。』

『みんなが正しいと言い始めたら、一回はそれを疑ってみること。たいていは自分の考えや判断が間違っていることのほうが多いが、それでいい。みんなが一つの方向を向き始めた胡散臭さをいったんは疑ってみる。その精神的な余裕と自分なりの足の位置を決めようとする態度は、坂道への転落を防ぐための必須の歯止めとなるかもしれない』

『余命半年と宣告された旦那さんを介護している奥さんが、看護婦さんに解熱剤がなぜ効かないのかを聞きただす。看護婦さんが丁寧に説明するが、翌日もまた同じ質問をする。看護婦さんたちのなかで「クレーマーではないか」と問題になってきたころ、あるベテランの医師がやってきた。奥さんは同じようにその医師にもくってかかった。ところがその医師は一言も説明せずに「奥さん、辛いねぇ」と言った。その一言で奥さんは泣き崩れ、二度とその質問をしなくなった。医師の言った一言は質問への答えとなっていないが、奥さんは答えなど期待していなかった。不条理を誰かに訴えたかったのである』

学ぶこと、聞くこと、答えること。考えさせられる一冊である。